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赤い鳥が唄ったミリオンセラー曲「竹田の子守唄」

​放送禁止になったのは何故?その背景。

1969年・昭和44年、新宿にある東京厚生年金会館ホール。全国各地で行われた地区予選を勝ち抜いたアマチュア・バンドが結集、

第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト全国決勝大会が開催された。これは新人ミュージシャンの登竜門です。

 

関西・四国地区代表として出場した「赤い鳥」のメンバーの歌った曲は「COME AND GO WITH ME」と「竹田の子守唄」。

「カム・ゴー・ウィズ・ミー」(Come Go with Me)は、

ザ・デル・ヴァイキングスが1950年代に発表したドゥーワップの楽曲。

リズムアンドブルースの名曲を素晴らしいコーラスで披露した後に、あまりに日本的で素朴な伝承曲「竹田の子守唄」が唄われました。

この二つの曲の対比に、聴衆は大きな感動を受けました。

 

みごとにフォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他4部門の優勝グループを抑えて総合グランプリを獲得しました。

グランプリを獲得したグループには、副賞としてヨーロッパ周遊旅行の招待券と、コンテストの音源は年度ごとにLPとして発売されました。

実質、メジャーデビューが叶ったわけです。

 

第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストの

臨場感あふれる音源が残っています。

採譜されたアカペラ元歌とアレンジされたミリオンセラー曲。

そして、昔の子守たちの写真です。

70年代の初めにミリオンセラーになりながら、いつのまにか消えていった名曲「竹田の子守歌」ですが背景には、1964年に左翼運動の一環として歌声運動というのが盛んになった時期がありました。

 

その運動家に「竹田」のある地区に住むあるおばあちゃんがその地区に伝わる「子守歌」をうたったところ、被差別部落の竹田に生まれた苦労が感じ取れるすごい曲だということで、運動家が発掘したそうです。

 

日本の60年代フォークブームは欧米のコピーが原型ですから、日本的な伝承曲がなぜ歌えないのかというフラストレーションが溜まっていた事は確かにありました。

しかし、皮肉なことにミリオンセラーになったことが「赤い鳥」の解散へのきっかけとなってしまいました。わずか5年足らずの活動でした。

「赤い鳥」のメンバーは誰が作曲したとか、詩がどんな意味なのかをあまり知らずに、ただメロディが美しいから、京都でブームになっていたからデビュー曲にしたということです。

(同志社大のアマチュアバンドが唄っていた)

 

この「竹田」は京都の「竹田」にある被差別部落の一地区 であり、女の子が労働として守をする風景をうたった子守唄です。

 

 

美しい曲なので商業的に歌い続ければよいと考えるメンバー

この曲に込められたメッセージを考えながら歌い込まないといけないと考えるメンバー​。結果、「赤い鳥」は解散の道へ・・・。山本潤子さんらは「ハイ・ファイ・セット」でポップス路線を

平山泰代さんらは「紙ふうせん」で日本的フォーク路線を・・・、それぞれ別の音楽スタイルを追求していきました。

 

あるテレビ局が同和がらみで放送禁止曲となり、それがきっかけでメディアから消えていきました。

 

流行り歌は、世相を映し出すとよく言われますが1960~70代は日本の経済成長期でした。1964年には東京オリンピックが開催されました。そして怒れる若者の時代でもあったようです。 ベトナム戦争反対の大きなうねりウーマンリブ、ヒッピー、ロックが世界的に流行。 赤軍派活動家による日航機よど号ハイジャック事件が起きています。

 

昨今のポップ音楽界はアイドル系、ビジュアル系が主流ですが、それにしても、今から50年前のミュージシャン達の音楽的レベルや社会に対する意識は恐ろしく高かったことがわかりますね。

 

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