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何の下絵なのか不明です。只、非常に大胆な構図と配色です。行年も不明。

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大叔父の「庄治衛門」が最初に入門し、そして養父であり叔父である「利右衛門」「幸助」と入門した棚木家の画塾ですが会津藩のお抱え絵師であり諏訪神社の裏手に藩より拝領したであろう家屋があった事は分かっています。がその画塾の規模や作品等については不明なのです。初代は「棚木宗判」、加藤明成のお抱え絵師でした。宗判の嫡子「良悦」は正保二年(1645)改易により会津を封ぜられた保科正之に仕えました。以後7代にわたって藩の御用絵師を務めたようです。幕末の文化年間に、家系は途絶えたと言われますが実際の所はよく分かっていないのです。

画 道 秘 伝 書

狩 野 派

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祭礼逗留のお礼として描かれたものか?

「良得」鶴の絵。

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江戸で34歳の若さで亡くなった6代目「良朴」の群鶴山水の掛軸。松夕の群鶴山水図と比べて欲しい。やはり師匠の血筋彩色のメリハリや塗りのスムーズさが全然違う。

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始祖は「狩野正信」室町幕府の御用絵師だった人です。2代目「元信」の頃に狩野派の基盤が固まっていったと言われます。安土桃山時代までは文化の中心は京都でしたが、江戸開府と共に「狩野探幽」等一派が幕府の御用絵師となり、江戸狩野四家と呼ばれました。「棚木宗判」の嫡子「良悦」は保科正之の命で鍛冶橋狩野家「狩野探幽」の画塾に入門したようです。十七年の修行を積み会津に戻り藩の御用絵師となりました。良悦の嫡子の「棚木雲雪」は尚信系の木挽町狩野家に学んだようです。本来なら「雲雪」が後嗣となるべきですが三男の「良叔」と比べて技量的に及ばないと判断した良悦は元禄十三年(1700)三代目を良叔にする事を藩主の保科正容に願い出て了承されました。以後の子息達が、何処の狩野塾で学んだかは不明です。

 

当時の絵師は今のようにアーティストではなく、同じ作風のもの忠実に再現する職人でした。オリジナリティー等を出してはいけないのです。弟子は元信や探幽の個性を忠実にまねる亊を求められました。この秘伝書も絵手本であり、誰でも元信や探幽と同じような絵を描けるよう花や草木、鳥、昆虫などありとあらゆる画題のモチーフを網羅したマニュアルです。これによって弟子たちは誰でも狩野派の絵を描くことができ作品の質も一定に保つことができると言うわけです。

狩野派は全国規模に広がった絵師の集団だった。

棚木家とは相当に深い付き合いがあったようだ。

「庄治衛門」が師事したのが2代目の「棚木良悦」と3代目の「良淑」以後「良珍」「良得」「良朴」「良栄」と6代にわたり佐々木家との付き合いが続いたようです。「松夕」の子孫も曽孫まで棚木の画塾に入門していたようですが、家業の江戸商いも「利右衛門」の没後、徐々に衰退したのではないかと思います。天明3年、浅間山の噴火による世に言う天明の大飢饉はこの地方も甚大な食糧不足が数年間続き、江戸商いや絵の修行どころではない時代もありました。当然、画塾へ通う頻度も減ったはずです。「幸助」は還暦を迎え、すでに孫が16歳となっていました。この孫も、曽孫も画塾に入門する訳ですが、絵に関しては「松夕」のような才能を持った人物は出なかったようです。

 

ただ、安永5年(1776)7月には「棚木良得」が14里の山道を歩き、松山の祭礼に滞留した記録もあり、親密な交際は続いていたようです。

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