top of page
IMG_2801.JPG

石神峠から銀山峠へ。

い し が み と う げ

ぎ ん ざ ん と う げ

銀山街道-3.jpg

幸助は、籠を背負い直し峠を降り始めた。美女峠は上り降り3里のそう長くない道のり。間方(まがた)までは下り坂でそう九十九折り(つづらおり)でもないから歩きは楽だし道もよく整備されている。今日は家を出かけるのが遅かった。紅葉を楽しむ物見遊山が目的でもあったから朝の五つ(午前8時)に出かけた。そう急ぐ旅ではない、いつもの砂子原の宿には暗くなる前には着くだろう。

幸助がまだ二十歳代の頃、夏場だが朝の八つ半(午前3時)に家を出て、暮れ六つ半(午後7時)には城下の七日町の定宿まで辿り着いたこともあった。さすがに足が棒のようになった事を記憶している。今は、もうそうした健脚はない、ゆっくりでいいのだと思う。

小半刻も降ると餅ケ沢に出る。大昔、平家の落人の下人が茶店を出し、餅や酒を売っていたと言うが今は家屋の跡さえもない。61歳の時に伊北を旅したことがあるが伊北、伊南地方には平家の落人伝説が多い。五百年も前の事なので知る由はないが地元の人々は深く信じているようだ。もう少し歩けば間方の集落が見えてくるはずだ。

 

 

 

 

 

 


 

 

銀山街道.jpg

手前が野尻郷、右の丸い山が棚倉山。美女峠はその山裾を通って間方口に抜ける。標高差約300 m程度のいたってなだらかな峠である。上部の遥か彼方に城下のある会津盆地が見える。

幸助は若松城下の諏訪四ッ谷、棚木の画塾へ向かっている。

この街道は伊北地方から城下へ抜ける主街道である。只見川沿いに下る沼田街道もあるが、深く激流の川や火山岩で地盤が弱くて崖崩れの危険性のある難所が多く川の渡しが必要な処もあった。人々は山道だが距離的にも近いこの街道を利用することが多い。美女峠、石神峠、銀山峠と三つの峠越えがあるが、そう難所はない。特に軽井沢銀山からは馬車道が良く整備されており道幅も広かった。二十歳の頃から養父の庄司衛門と二人で麻や苧(からむし)の原糸を背負い、量が多い時には荷馬を引いて、この片道14里を往復した。はるか遠い昔の事のように思える。

 

幸助は間方集落から大谷(おおたに)川沿いに浅岐(あさまた)集落、大谷集落へと歩き進める。「秋の日は釣瓶落とし」六つ前には暗くなる、その前に石神峠を越えなければならない。ちょっと美女峠の紅葉に見とれすぎたようだ。大谷川は下流で只見川と合流するのだが、その手前の大谷集落で石神峠越えの山道に入る。登りもそうきつくなく距離も短い峠だ。ひと山超え、やはり只見川支流の滝谷川沿いの谷に降りるのだ。予定通りに暗くなる前に砂子原の定宿にたどり着いた。ここは古代から神の湯と呼ばれてきた秘湯、湯治場。8つの源泉がわき出ており湯量が豊富だ。この宿にはかけ流しの露天風呂がある。養老元年(717年)に発見されたと言うから、奈良に都があった時代初期の話である。宿に入ると顔なじみの主人に挨拶していつもの部屋に荷を降ろして、ひと息入れた。

 

 

 

 

 

 


 

 

滝谷川の清流と紅葉が楽しめる露天風呂のある、この宿が幸助はお気に入りだった。

湯量が豊富なのは、温泉郷のさらに山奥に日本随一の地熱発電所があることでも分かる。

幸助は、朝の露天風呂にゆったりと浸っている。

この湯は薬いらずと言われ、万病に効くとされる。軽井沢銀山の最盛期には坑夫達が湯治のために山を降りて来て、宿も盛況満室、大変賑やかだったそうだが昨晩の宿泊客は近隣の人が四、五人だったようで酷く静かだった。宿の主人との世間話で聞いたのだが、銀山の閉山はこの温泉郷にも大きな打撃をもたらしたようだ。改めて飢饉の恐ろしさと、それが経済に及ぼす影響を考えさせられた。

朝の露天風呂には誰も入っておらず、滝谷川のせせらぎと紅葉を見ながら五体を伸ばしきり身も心も寛いで入浴ができた。天気も良く雨の心配はない。宿の朝食を頂き、昼食の握り飯をつくって貰った。今日は銀山峠を越え下荒井から城下へ入る。幸助は身支度をし、宿の主人に挨拶して帰りの時の予約も伝えた。朝の五つ(午前8時)に宿を出たからお昼前にはラクラク銀山に着けるだろう。あとは道も良いし城下には昼の七つ半(午後4時)頃には入れるだろうと思った。

 

 

 

 

 

 


 

bottom of page