何の下絵なのか不明です。只、非常に大胆な構図と配色です。行年も不明。
狩野派はひたすら中国絵画を模写する事を繰り返します。伊藤若冲も最初は狩野派に学びながらも、定型化した技法に飽き足らず独自のスタイルを確立しました。「松夕」もそれを感じていたはず。しかし田舎の藩ゆえ絵画と言えば狩野派だけです。お世話になった棚木家への配慮もあったでしょう。我流に陥らず没年までこの派の画風を貫き通した訳ですが、この下絵を見ると「松夕」なりの独創性が感じられます。掛軸か屏風の一部分か不明ですが、どこぞの家の土蔵に作品が眠っている可能性があります。仕上がった作品より制作過程を覗くのは、より興味深いものを感じます。ぜひとも、どのような作品となったのか実際に拝見してみたいものです。
「昇り鯉図」これも大胆な構図です。画力から見ると晩年の仕事でしょう。行年は不明。
「海上登り龍図」文化10年とあるから「松夕」92歳の時の下絵。加藤遠澤の写しか?そう言えば若冲も北斎も昇り龍の肉筆を遺作とした。己れの生命が天に駆け昇る、凄まじく迫力のある絵だった。
安永5年、「松夕」55歳の時の下絵。上の昇り鯉から比べると明らかに平凡な構図。迫力にも乏しい。この年、養父の庄治右衛門(利右衛門)が82歳で亡くなっている。
享和4年、「松夕」83歳。「松鷹図」の下絵。鷹の絵も多く描いている。
宝暦6年(1756)に書写したと思われる「日本國・海路図」幸助が35歳の時です。諸藩と海路が詳細に描かれています。この地図を書写するのにどれだけの時間と労力がかかったのか想像すると、その集中力に凄みを感じてしまうのです。
山奥の僻村に住していて、いったい何のために必要だったのかましてや海路図など不要なはずです。単なる知的好奇心が成せる事なのかとても不思議です。長い巻き物で保存状態は最悪です。早い時期にデジタル撮影しておくか、然る可き所で保管するかが必要かと思うところです。
世界万國図。日本國絵図・海路図を描く。
文化5年、「松夕」85歳。「世界万國図」棚木の画塾での書写であろう。鎖国の時代であった事もあるだろうが、曖昧模糊な地図です。幕府はオランダとの交易もあり、もっと詳細な世界地図は持っていただろう。
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