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諏訪四ツ谷の棚木家の屋敷は、七日町の常宿から小半刻とかからない。代々、藩の御用絵師を務めてきた棚木家は百二十石を拝領する士分格であり、名字帯刀を許された家柄で世襲制である。大叔父の庄治右衛門は狩野探幽の弟子であった棚木良悦に画を学んだが、良叔に世襲したため幸助も19歳の時、養父の利右衛門と共に良に師事した。しかし叔は延享三年(1746)に没した。わずか六年間の師事であった。後は嫡子の良珍に画を学ぶ事となった訳である。

 

当然の事に利右衛門は江戸商いが忙しく塾の門下生に名を連ねているだけではあった。良珍も明和三年(1766)に六十三歳で没した。幸助が四十五歳の時である。良珍には二十年間に渡りを学んだ。その後の七十三歳に「松夕」という狩野派画号を頂戴するまでの期間は嫡子の良得に学んだ。棚木家三代の長きに渡り、画道を師事した事となる。良得は子供の頃から知っている。年に数回しか画塾に顔を出さない幸助は「野尻のおじさん」と呼ばれて、なつかれていた。幼い良得にしてみれば、約14里もの山奥からやって来る、幸助に対し、奇異な感じと親近感を持っていたのだろう。

 

宿の朝食をすまし、置いてもらっている作務衣に着替えた。棚木家は武家の格式を持った画塾である。門下生には武家の子息や商家、豪農の子息が多い。山道を歩ってきた格好では敷居を跨げない、月代や髭も伸びていたので、近くにある馴染みの髪結床でこざっぱりと身繕いした。

 

本町(ほんまち)の商店街をしばらく歩くと、外堀に行きあたる。ここは蒲生氏郷が城下町を整備した時に軍事用として造られた深く大きな堀である。外堀の内側はお城を中心に武家屋敷が建ち並ぶ。棚木家の屋敷は外堀沿いにある。堀の対岸は諏訪神社のこんもりとした森が見える。

 

 

 

 

 

 


 

 

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狩野派の画塾にて。

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士分格であった棚木家は、そう大きな邸宅ではないにしても、しっかりとした造作だっただろう。

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