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幸助は下新井にいる。時は寛政3年(1791)彼は七十才になっていた。銀山街道からちょっと外れた田園の中に、ぽつんと千歳桜は見事に満開となっている。伝承によると文永10年(1273)この地の領主だった富塚伊賀守勝が江川長者の娘(幼名・千歳)が亡くなったのを悲しんで供養のために植えたと言うから樹齢は五百二十年近くか?上部は落雷のためか既に無く、幹周は三十尺(約10m)もあろうか、中は空洞化している。幸助は半刻も飽かずにこの見事な「紅彼岸桜」を眺めている。その圧倒的な生命力に感動しているのである。上半身を失い己の枝さえ支えきれなくなっても、春を感じると蕾を開き花を咲かせるその力は何処から生まれてくるのか?不思議である。老体ながら必死に花を咲かせようとしている姿に、どこか自分を重ね合わせている事に気づくのだ。

十九歳の時に養父の利右衛門と共に、江戸に送る麻糸を背負って初めて城下を訪れた。山育ちの幸助にとっては広大な会津盆地の風景の見るもの全てが珍しかったのを覚えている。この千歳桜の事も養父が教えてくれてたのだ。あの時も満開のこの桜を一緒に眺めたものだった。養父も四十六歳と働きざかり、江戸や大阪の商いも順調だった。商いで稼いだ金は惜しみなく集落のために使った。数カ所の木橋を自費で石橋に架け替えした等の善行が、藩の目にとまる事なり報償として、米五俵を賜ったのもこの頃だ。

養父は十五年前に亡くなっており、順調だった江戸商いも小千谷縮や越後上布が織物商いの主流となってしまったため馬喰横山町の繊維問屋からの発注は殆ど無くなっている。八十里越を越えてやって来る、越後の仲買人の方がいい値段で「からむし」の原糸を買い上げるので値段的に対抗出来ない。半世紀もたてば経済状況も変わって当然である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

七日町に宿をとり、棚木家の画塾を訪ねた「良叔」面会、二人して画塾に入門してから、はや五十年の歳月がたっているのだ。

 

 

 

 

 

 


 

 

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苧麻(からむし)の栽培と紡いだ原糸は、幸助の集落や近隣の村々の産業となっていた。

よろこびの千歳桜

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