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佐々木邸-2.jpg

「松夕」が19歳で婿養子となり、没年まで暮らした佐々木邸。安永8年の大火後に建て直されているが、

  約240年間そのままの外観で残り、今もご子孫がお暮らしになっている。

狩野派の画号取得まで54年間の画道修行。

没年96歳の前年まで絵筆を持った生涯学習の達人。

名だたる豪雪地帯、一年の半分は雪に埋れた生活が続く寒村です。急峻な山々に囲まれた、わずか20軒にも満たない集落。谷間ですから田畑の面積もたかが知れたものと言えます。松夕の生まれた享保7年(1722)の二年前には、南山御蔵入騒動のような百姓一揆が起こっています。五公五民のこの時代、農民の生活はかなり窮乏を極めていた思われます。この時代、この土地で生きて「画道」を志ざすと言うようなエネルギーと資力はどこから生まれて来たのか、いささかミステリアスな感じさえ覚えるのです。

とにかく彼はこの地で育ちました。「佐々木松夕」は画号で名は佐々木 幸助 信秀と言います。農民が名字など持てなかった時代に

よくもまあ仰々しい名を付けられたものと驚きですが、天領の時代が長かったので、幕府の目も緩やかだったのでしょう。

19歳で婿養子、若松城下の画塾に入門する。

棚木家との深い付き合いは二代前から。

貧しい僻村で画を描くと言う、ちょっと浮き世じみた文化的所為は何処から培われたのか?それは松夕の二代前、養父の利右衛門の叔父にあたる庄治右衛門秀度(ひでのり)と言う人の影響が大きいのです。やはり名主の子で、生れながらの障害を持っていたようです。名主の家の裏手に分家しています。彼は書画に優れ論語の素読も出来たようです。幼少期の利右衛門が家のすぐ裏手にある叔父の家で厳しく学問を学ぶ姿は、ように想像ができます。どういう伝手でかは分かりませんが若松城下の棚木良悦に画を学んだ事が記録に残っています。しかし、体が不自由であった庄治右衛門がどのような手段で御城下の画塾まで通ったのか不思議でなりません。

庄治右衛門は狩野派の画風を学んだが、仏画を好んで描いたようです。徳林寺に奉納された、44歳の時の作品「涅槃図」の大掛軸が遺されています。

庄治右衛門は、体が虚弱だったせいか55歳で亡くなっています。

利右衛門が27歳の時です。まだまだ書画や漢文を学びたかった事と思います。叔父の名前を頂戴して利右衛門)改め庄治右衛門名のったこと自体、いかに叔父を尊敬していたかが分かりますの改名が後年、庄治右衛門が二人存在すると誤解を生む事になったのではないでしょうか。松夕の画道秘伝書に記されている「甥幸助と共に庄治右衛門秀度(秀徳?)も入門」とあります。幸助は庄治右衛門の没後に生まれている事の不思議や「村内の数カ所の木橋を自費で石橋に架け替えた等、其の他善行が多かったので官より賞与を受けた」などの記録は、体が不自由な先代の庄治右衛門とは考え難いのです。

 

佐々木と城の系譜が「松夕」に繋がる。

庄治右衛門利右衛門幸助と言う系譜が思い浮かぶのですがそれでは誰が庄治右衛門に読み書きを教えたのでしょうか?この山奥の僻村に寺子屋制度があったとは思われません。やはり親が子に教えるのが代々の伝統であったと考えるのが妥当だと思います。帰農はしているが元は鎌倉武士の魂を持った子孫たちなのです。

系図を拝見した事があるのですが、現在の名主の子孫は51代目だそうです。二親のまたその二親という風に倍数で計算すると51代だと地球の人口より多くなります。系図自体そう意味のあるものとは思えないのですが、この時代の人は自分の祖先が何処からやって来たのかを、とても大事にしていました。自己のアイデンティティをしっかりと持っていたという事です。

「近江國栗城ニ住居」とあります。現在の京都府綾部市に

栗町という地名と栗城跡が残っており系図に信憑性があります。

近江の領主の子孫が何故、奥会津に入ったのか?

51代に及ぶ長い長い物語の一節なのか。

系図は天正年間の伊達政宗軍と蘆名義広軍との合戦のあった時代で終わっています。この合戦は摺上原の戦いで決着したわけですが

奥会津の山之内家領内でも局地戦があった事が記されています。

以後の系図も有るのでしょうが拝見はしていません

「松夕」は、そう、深山に咲く山百合のような人物。香気のある才能が開花したのにはこうした歴史に培われた背景があるのです。

庄治右衛門が利右衛門に教授したように、利右衛門もまた幼少期の幸助(後の松夕)に読み書き、算盤、書画や漢文に到るまで教えた事と思われます。そうした子供に対する教育や躾や倫理観は親や親族が教えるものと代々伝えられて来たのでしょう

[幸助]の生家での生活、集落の人々の暮らしぶりは?

この時代の民家の中は相当に暗かった。ましてや豪雪地帯でもあり高窓のつくりになっていたでしょうから、特に冬場は殆ど光が差さない行燈だけが頼り、囲炉裏の火を囲んでの一家団欒の暮らしがあったと思われます。「奉願婿名跡御暇之事」の文書に12歳の男の子と8歳の女の子が記されていますが、これは母親年齢からして兄弟ではなく家督を継いだ長兄の子、「幸助」甥と姪でしょう。さらに4人の下男下女が記されていますから、家族と使用人の大所帯、大勢の人達と賑やかに暮らしていた事でしょう。

「幸助」は19歳までこの大きな家で育ちました。名主だけに生活はそれなりに不自由はしなかったでしょう。しかし収穫した米の半分は年貢な訳ですから、三度の食事が白米のご飯と言う訳にはいかなかったかも知れません。宝暦10年(1760)に描かれた集落の絵図を見ると、かなり詳細に戸数は18軒、田は6町7反3畝と畑が10町○反7畝と記されています。他資料でも松山集落の石高は116石とあり、いかに耕地面積が少なかったが分かります。1石は2.5俵ですから、米は290俵しか収穫できなかったのです。半分は年貢

残りの145俵が集落の人々の主食となった訳です。もちろん平等な分配ではなく、分家・小作人・使用人と名主を頂点としたヒエラルキーはあったでしょうから、中低層の農家は相当に貧しい暮らしだった事は間違いありません。

文書

一族による、たいへんな開墾事業だったのだろう。

系図によりますと天正年間の初期に帰農したようです。山之内家に仕官後も、瀧谷から川口へと代により居住地も変わっています。分家所領の野尻郷は鎌倉時代初期から田畑開墾が進み、それなりの石高あったでしょうが、帰農した松山地区は沼地あり谷地ありの全くの荒れ地だったと思います。あくまで想像の域ですが親族の何世帯かせいぜい数十名の人々の入植だったでしょう。6町歩の水田と10町歩の畑を開墾するのには、何十年間何世代もの苦労があったはずです。

人々の記憶から消え去っていた「松夕」という人物。

約一世紀近くを生きた人です。文化14年(1817)に没するまでこの逆境の土地に暮しながらも絵を描き続け、漢詩を作り、頼まれば他村の絵図(今で言えば測量士のようなもの)も描いた事が

記録に残っています。俳諧にも長けていたことは「伊北紀行」日記で分かります。とにかく、とてつもなく傑出した文化人でした。狩野派の画号を得た晩年には、門弟が122人もいた事が記録されています。子孫の翁に伺った事あるのですが「松夕」農作業な事は一切しなかったと仰っていました。なんとなく頷ける気もします。下の絵は20代の頃に描いた「松山八景」の中の一枚。若い時代の習作でしょうから稚拙さはありますが、彼独特の細字の書体で漢詩が書かれています。戸倉山は村の北西に聳える急峻な山。新雪が降った夕暮れの風景でしょう、左手が「松夕」の家、鍬を担いで足早に家路に戻る農民が何とも素朴に描かれています。

「松夕」の時代を遡ること約200年前の事です。

絵図の作られた宝暦10年には、戸数も18戸となり集落としての形が整ってきた時代でしょう。養蚕や苧(からむし)や麻、コウゾの栽培、蝋しぼり、和紙漉き等を手掛ける家もあり、雪に埋もれる期間は苧や麻の糸紡ぎの手仕事が現金を得る副業となりました。食生活は山の幸に恵まれ、春は山菜、秋は茸、初冬には鮭の遡上もあったしょうから、意外とバラエティ豊かで健康的な食事が出来ていたのかも知れません

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代官所に届けられた文書。母が57歳とある、実子であれば38歳の時に産んだ事になる。(クリックで拡大鏡)

綾部市は京都府の北部に位置する市。絹織物で有名で、繊維・機械産業が盛んです。

(クリックで拡大鏡)

綾部市栗町地図.jpeg

栗城は中世においては、大槻氏の所領で(一尾城)と呼ばれていた。標高134mに築かれた、典型的な山城。現在は主郭部のみ草が苅られて整備されている。

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松夕が書写したと思われる佐々木氏栗城の系図。(クリックで拡大鏡)

名主の二男(養子説もある)として生まれ19歳の時に同じ集落の利右衛門秀徳婿養子となりました。この養父もまた名主の家から婿入りしていますから叔父と甥の関係になります。利右衛門という人は

かなりの商才ある人で、からむしや麻糸の江戸商いでかなりの財を成したようです。養子の幸助を藩の御抱え絵師、棚木家の画塾に

入門させるくらいの資力はあったのでしょう。

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会津民族館に移築されている隣村の名主佐々木邸、居間の作りはほぼ同じと思われる。

系図によると野尻郷に帰農した佐々木氏の兄弟か親族。(クリックで拡大)

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隣村の名主佐々木邸の外観。ほぼ同じ造りだったと思われる。

県の重要文化財に指定されています。

中層農民の民家は奥会津地方の独特の建築様式の曲り家(まがりや)と言われていた。農作業に欠かせない馬を家の中に入れ、一緒に生活していた。

この旧馬場邸は国の重要文化財に指定されています。

中層民家.jpg

居間は板葺きではなく囲炉裏の周りを土間で囲い、筵(むしろ)を敷くだけな非常に粗末な造りだった。

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 松山図-2.JPG

名主、和左衛門(幸助の父?)の名が見える。年代的にみて「幸助」のちの松夕の仕事かも知れません。

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「戸倉暮雪」集落で漉いた紙を使用しているのかも知れない。(クリックで拡大)

新雪の積もった戸倉山の美しい風景。

「松夕」も毎年見続けただろう。

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戸倉山新雪.JPG
秀度-涅槃図.JPG

宝永5年(1708年)奉納ですから、約300年前に描かれたものです。奉納者の中に利右衛門名もあります。

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73歳で画号を頂戴するまで54年間、画塾に通い続けた「松夕」没年まで精力的に活動します。掛軸や屏風の依頼は相当数あった事と思います。どこぞやの土蔵の中にはまだまだ彼の作品が眠っているかも知れません。没後200年、人々の記憶から消え去っていますが

絵の芸術的な価値はさておき、その知識欲に溢れた強靭な精神性に感動を覚えるのです。

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寛政7年(1795)11月、画名願いが許可された。28日にしょく髪が結え、正式に「松夕」と名のれる事となった。

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南山御蔵入り騒動が分かりやすく紙芝居風に解説されています

南山

系図によると近江の豪族、佐々木氏の傍流がこの地方に持っていた領地争いから始まっています。惣領制のこの時代、親族間の争いが多かったのです。詳しくは記されていませんが、嫡子が叔父を刃傷沙汰におよび、領地から去る事になり最初は伊豆下田で浪人をしていましたが、信州へ下り海野家の婿となったようです。三子あり、次男の小次郎定之が海野家を継ぎ、長男の小太郎秀喬は佐原十郎義連の臣下となり会津入りをしたと記されています。

 

この時に父の住んでいた、栗城を名字としたようです。建久二年(1191年)とありますから鎌倉幕府の創成期で今から800年程前の事です。栗城小太郎秀喬が佐々木系栗城のご先祖様です。

ザックリと言うとまずは、頼朝から奥州藤原氏征伐の恩賞として会津を所領した「佐原十郎義連の家臣として黒川城下に居住」➡︎「佐原(後の蘆名氏)の家臣」➡︎「蘆名氏のお家騒動で浪人」➡︎「三代ほど小舘で医を生業(軽井沢銀山近く山里、現美里町)➡︎「伊北地方所領山之内家へ仕官➡︎「任地が瀧谷から川口」➡︎山之内家の分家所領の野尻郷松山で帰農

と言うことになります。

棚木家地図.JPG
諏訪四谷.JPG

諏訪神社の裏手には外堀があり(現在は無い)堀沿いに棚木家の画塾があった。今は諏訪四谷の石碑が建っている。(クリックで拡大鏡)

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