反対側からのアングル。左右の太い幹の上部は折れて失われています。
幹回り10.5mの一部は空洞化しています。
樹齢七百五十年の紅彼岸桜。「千歳桜」という名に込められた
哀しい物語が伝えられています。
中田の観音様としてこの地方の人に親しまれている「弘安寺」のすぐ近く
美里町米沢地区の田園風景の中に、ポツンと「千歳桜」は佇んでいます。
4月の中旬から下旬に訪れると、ちょうど満開の姿を眺めることができます。
桜の上部は落雷のためか既に無く、幹周りが約10.5mほどもある古樹は、
幹の一部が空洞化しています。上半身を失い己の枝さえ支えきれなくなっているため、地元の保存会の皆さんが、支柱を何本も立ててケアされている状態です。
老木ながら炎暑の夏、霜降る秋、厳寒の冬を経て、春を感じると蕾を開き
必死に花を咲かせようとしている、その圧倒的な生命力に眺める人の感動を呼び起こします。
開花時期の夕刻にはライトアップも行われます。夜桜の幻想的な美しさです。 〈画像クリックで拡大します〉
この「千歳桜」という名の由来には
悲恋物語の伝承があります。
佐布川村(今の美里町)に江川常俊という、白壁の倉を7棟も構える豪農が住んでいました。土地の人々は長者とよび、何不自由のない生活でしたが
子宝に恵まれなかったため、会津の霊場である法用寺の十一面観音様に
願かけをしたそうです。その夜、妻は菩薩様にゆり起こされる夢を見てみごもり
一人の女子をもうけました。夫婦のよろこびは大変なものだったようで
名を常姫・幼名は千歳(ちとせ)と名付けました。大事に育てたかいがあり娘は、とて美しい娘に成長したそうです。
文永十年(1273)に17才の春をむかえる事なり、そのお礼参りにと、法用寺の虎の尾桜(とらのおざくら)が満開の時に娘を美しく着かざらせお参りさせました。ちょうどその時、参拝に来ていたこの地方の地頭の富塚伊賀守盛勝に出会ったそうです。盛勝二十才。大変すがたの美しい若殿と会った常姫は一目惚れ、屋敷に帰った常姫ですが、打ち明ける人もおらず思い悩むばかり、それからというもの食事も喉を通らなくなりそのまま床に伏してしまいました。医者やら祈祷師を頼んだりといろいろ手をつくしたそうですが、姫は一向に回復せず、ついにはこの世を去ってしまう。同じ年の文永10年6月17日のことでです。
夫婦はたいへん悲しみ泣きつづけていたが、やがて意を決し、常姫の菩提をとむらうために全財産をなげうって、常姫と等身大の観音尊像をつくる事にしました。しかも銅鋳造によるもの、この時代は銅の生産量が減少しており、価格は高騰していました。いくら豪農の長者だと言っても個人の資産で賄う金額ではなかったでしょうし、だいいちこの地方に187㎝もの大きさの観音像をつくる銅鋳造の技術を持った仏師がいたでしょうか?いささか疑問も残ります。
長者夫婦は観音堂を文永11年(1274)に建て愛娘の像を安置し供養したそうです。
このことを伝え聞いた守勝は、子に対する親の切なる思いに心を動かされ、常姫の永遠の幸せを祈り、亡くなった同年に、姫の幼名から「千歳桜」と名付けた紅色の彼岸桜を、自分の屋敷の一角に植えたと言うことです。
現在の中田の観音堂は、守勝が弘安2年(1279年)に伽藍を造営して堂を弘安寺と改めました。自らも臨済宗に帰依して、その後20年間にわたり姫の霊を慰め続けたそうです。
盛勝は正安元年(1299)46歳で没しました。法号は弘安寺殿玄翁宗頓居士であるとされてます。
後日談ですが、長者夫婦は目的をはたしたものの世の無常をさとり、弘安元年(1278)諸国遍路に旅立ってその後の行方はわからないと言われています。
まあ、伝承には諸説あるようですが歴史のロマン、神秘と愛惜の象徴として今に伝わっています。
法用寺の虎の尾桜。歴代藩主や姫様が鑑賞した桜として知られ、地元では縁結びの桜とも言われています。
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上、弘安寺 下、本尊の十一面観音菩薩 常姫のおもかげを模した、ふっくらとした円満麗艶な慈悲相です。
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