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鶴ヶ城.jpg

若松城下へ到着する。

​鶴ケ城は戊辰戦争時、新政府軍に包囲され大量の砲撃で、酷い損傷を受けボロボロの状態だったがそのまま放置された。

現在の天守閣は昭和40年に再建された。松夕の時代も外観は同じでも、写真のように近くで眺める事はできなかっただろう。

幸助は久保田集落から松ノ下集落を通り、銀山峠の登りに入った。標高の低い小高い山だから一刻(とき)もあれば峠の頂上に着く、後はなだらかな丘を小半時(30分)も下ると今は閉山している軽井沢銀山が見えてくる。永禄二年(1559年)に蘆名盛氏が採掘開始を開始したと言われる。地震や飢饉で開閉山をくり返してきたが、保科正之の時代に再開され最盛期となり藩の財政を潤した。銀山の近郊には千戸の家が建ったと言われる。幸助がまだ子供の頃の話である。天明三年(1783年)に再開するも、また深刻な飢饉により閉山となっている。今は幾つものズリ山が見えるだけで人影は全くない。まだ昼にはなっていないようだが銀山跡を眺めながら昼食にする事にした。宿で作ってくれた握り飯はとても美味しかった。

 

 

 

 

 

 


 

 

銀山跡-s.jpg

現在の軽井沢銀山の跡。右に見える精錬用の煙突は明治時代に再開して造られたもの。幸助が眺めた時は無かった。

最盛期には幾千人もの坑夫や物資を運搬する人夫の人々が立ち働いていたと思うと時の移り変わりの虚さを感じる。

ここは幸助の遥か昔の先祖と縁のある土地なのだ。本家の系図を安永10年(1781年)60歳の時に書写して知ったのだが佐々木家は元々は蘆名家の家臣であって黒川(若松)城下に住んでいたと記されていた。佐原義連と共に会津入りしたと言うから、蘆名家では譜代でかなりの重鎮の職に有ったのだろうと思う。鎌倉の初期から戦国末期に伊達に敗北するまで四百年間、蘆名は会津100万石を統治した名門の大名である。

 

系図には建武元年(1334年)蔵之介秀信の代にお家騒動の為浪人したと記されている。約四百五十年前の事をよく連綿と伝え続けられて来たことに驚いたものだ。蘆名氏は佐原系の猪苗代氏を始めとする家臣団の統制に苦慮して、常に内紛を抱えていた。記されているお家騒動もその中での政治的な失脚だったのだろうか。浪人した秀信の子、養謙がこの銀山近郊の集落の「小舘」に住み、医家を生業としたと系図には記されている。だから幸助はここを通る度に感慨深くなるのだ。先祖はどんな思いで武士を捨て、城下から遠く離れた辺鄙な山里に移り住んだのだろうと考える。この街道を少し下った処の上平郷に「小舘」の集落はある。

 

 

 

 


 

 

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幸助が安永10年、60歳の時書写したと思われる佐々木氏栗城の系図の部分。浪人した建武元年(1333年)といえば元弘の乱で鎌倉幕府が滅びた年。蘆名家中でも朝廷につく側と幕府に義理立てする側に分かれたのだろう。この乱で次男の又五郎が出陣し関東にて討ち死したと記されている。            (クリックで拡大鏡)

すすきの街道.jpg

下荒井までは緩やかな下り道、銀山への物資の運搬は馬車が使用されていたので良く整備された広い道だ。城下までの道は銀山街道と呼ばれている。もう少し歩けば会津盆地へ入って、美しい棚田となり、やがて平坦な田園風景が広がってくる。

この盆地では奈良時代から、いやもっと前の古墳時代から稲作は続けられてきたのだろう。土地はとうぜん肥沃で水利にも恵まれている。反当たり米の収穫量にしても幸助の集落とは比較にならない。画塾の門下生には地主の当主や息子も多い、

いちど尋ねた事があるが、反十俵の収穫がある農家もあると言う。ヒドロ田(腰まで沈み込んで農作業をする超湿田)の多い山間部では、せいぜい反当たり五俵程度に過ぎないのだ。

下荒井まで出ると広遠な風景に変わってくる。左手の遥か彼方に冠雪した飯豊連峰、右手には雄壮な磐梯山が聳え

刈取りが終わった田園が延々と続く。いったい何千町歩、いや何万町歩の田畑があるのだろうか。その広々した風景の中に集落が点在しているのだ。あちこちで籾殻(もみがら)を焼いているのか煙がたなびいている。この風景を見ると、やっと城下に入ったことに人心地つく気がする。あとは平坦で真っすぐな街道を一刻半も歩けば大川に架る蟹川橋へ出る。この橋を渡れば常宿のある七日町はすぐだ。

 

暗くなる前の七つ半(午後5時)に三浦屋に到着した。この宿は幸助や養父が四十年以上も利用している。主人は2代目になる。女中に盥で脚を洗ってもらい、用意された部屋に案内された。殺風景な六畳一間だが只、宿泊するだけなので不満はない。夕食にはまだ間があるようなので取り敢えず足を伸ばして十四里の山道を歩いて来た体を休める事にした。三浦屋は父親の和右衛門が長らく逗留して「会津農書」を書写した宿でもある。七日町は当時、越後街

米沢街道などに沿っており、旅籠屋や海産物問屋などが多く

宿場町であり物流の拠点でもあった。

 

 

 


 

 

三浦屋.jpg

江戸時代の旅籠のイメージ。当然のこと交通機関はなく、徒歩で到着する客のために  

草鞋を脱いでもらい、足を洗うのが宿のサービスだった。

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