top of page

彼は背負っている小籠を外し、大事そうに結いてある風呂敷包みを確認した。中には画塾の課題である手本の掛け軸と模写した下絵が桐箱に、小籠には棚木家へのお土産の自然薯が入っている。昨日、息子の秀幽(ひではる)が掘り出してくれたものだ。師匠、良得の喜ぶ顔が目に浮かぶ。しばらくの間、感慨に浸っている。彼の名は「幸助」画号を取得する前の「松夕」である。養父の庄治右衛門と養母は十年ほど前に他界した。秀幽も働き盛りとなり孫の秀直(ひでなお)も二十歳を過ぎた。幸助も還暦をとうに過ぎ、一家の長となって十数年となる。さらに感慨深く遥か遠い山なみを眺めながら、あっという間だった六十六年を回想した。自分の生きてきた道は、ほんとうにこれで良かったのだろうか?自問自答をくり返した。

 

幸助にそんな思いにする不幸な事が続いて起こったのだ。安永八年(1779)松山集落は、とてつもない惨事に襲われた。雪解けも終えた春先の乾燥した時期、晴天が続き空気が乾燥して嫌な強風が吹き荒れる日だった。ある一軒のかまどの火が近くに積んであった焚き付け用の芝技に燃え移ったのだ。あっと言う間に茅葺きの屋根に炎は拡がり、強風に煽られた炎はたちまちの内に隣家に、さらに隣家に燃え拡がった。急に暖められた大気は

ゴーゴーと谷風をよび、川向いまで飛び火して、集落は全焼した。夕方には鎮火したが類焼をまぬがれたのは僅か一軒だけだった。

幸助も大事な家財道具を持ち出すのが精一杯で、消火作業など出来る状態にはなかった。人々は焼け跡に茫然自失として立ちつくした。

 

大火の惨劇に追い打ちをかけるように起こったのが飢饉だ。名主の家こそ村中が総出で早急に建て直したものの、まだ数軒は掘っ立て小屋に仮住まいをしている状態だった。

明和の終り頃から悪天候による作物の不作は続き、山間部の農村は疲弊していたが、天明3年(1783)7月に浅間山が大噴火、偏西風に乗り奥羽地方まで火山灰を降らした。これは日射量低下による冷害を引き起こし、夏でも綿入れを着用するほどの寒冷な陽気に、稲はまったく実らず収穫できなかった。幸助の集落は山間部の寒冷地だけに農作物に壊滅的な被害を生じさせた。後に言う天明の大飢饉である。

 

 

 

 

異常天候は数年間と続き、人々は食糧難に苦しんだ。そして食べれそうな物を求めて山に入った。おおよそ食用となりそうな草や、その根や樹木の皮を剥ぎ、稗や粟との雑炊で何とか飢えを凌いだ。名主は冷静に村人に指示し、お互いが助け合ったのでなんとか餓死者は出さずにすんだが、飢えは人間を常軌でない精神状態にする。翌年用の種籾まで食べてしまった村もあったと聞く。もう今の飢えを凌ぐ事しか思考出来なくなるのだ。藩には米を備蓄しておく「社倉制」(しゃそうせい)があって困った人がいたら誰にでも米を差し出していたが、大飢饉はそれさえ食いつぶしても足りないほどだった。猪苗代では約130人以上が、城下でも約270人の餓死者が出たと聞く。弘前藩では死者が10数万人にも達したと言う、真しやかな風聞もある。江戸や大阪では米価が跳ね上がり、米屋への打ちこわし騒動が起こっていると画塾で聞いた。

幸助は今まで農作業的なことは全くしてこなかった。畑仕事はもっぱら妻のお藤に任せっぱなしだったし、田は小作人に任せていた。あの忌わしい大火の時、そして何年も続いた飢饉の時己の無力さを痛感したのだ。近隣の村々では稀な文化人として尊敬されていると自負していたのだが、あの災害の時程自分の不甲斐なさを感じた事はなかった。画を描ける事など何の役にも立たない、自宅に篭ったままで野良仕事をしない幸助を村の人々は、けっして快くは思ってはいなかっただろう。

お藤は養父の三女で、嫁ぎ先で二児をもうけながらも離別して出戻った女、幸助より六つも歳上だ。最近めっきり老け込んだ

無理もない、もう七十を過ぎた老婆だ。農作業はもう出来ない、秀幽と嫁の由紀、孫の秀直が畑仕事をしている。あの飢饉以来は非常食用に冷害に強い、稗と粟は毎年植え付けする様にしている。秀幽も画塾に入門こそさせてあるが、大火と飢饉以來は画の事よりも家族の食料をいかに確保するかに心がいっている。それは当然の事だと幸助は思う。あの大飢饉の時、作物が実らないと言う恐怖は村人を震撼させた。文化と言うものは衣食が事足りた上で成り立つものなのだ。

 

 

 

 

 

 


 

%E7%B4%85%E8%91%89%E8%A1%97%E9%81%93-2_e

美女峠の紅葉

び じ ょ と う げ

asama噴火.jpg

断続的に小噴火をして火山灰を撒き散らして付近の耕作地に被害を出してきた浅間山だが、天明3年1783年

7月8日に大噴火した、噴煙は1万800m上空まで吹上げ、火山灰を北西部に降らした。

世界的に見ると同年にアイスランドのラキ火山も大噴火しており、マグマの活動期であったようだ。

若松城下に通じる山道を、足早に歩く人をイメージする。周りは一面の美しい紅葉、落ち葉が積もって今日はまだ誰も通った形跡はないようだ。峠沿いにある「高姫清水」で竹筒に水を汲み、頂上まで登ると倒木に腰を掛け、菅笠を外して一息入れる。竹筒の水を一気に飲みほした。もう何百回この峠を越したのだろうか、この時期の美女峠は毎年通るのだが本当に美しい思う。楓の木が多いので特に紅葉が映えるのだ。後に巡見使に随行した古川古松軒もその著書「東遊雑記」で、この峠の楓類の紅葉を絶賛している。錦織りなすこの風景は、人の心を和ませるのだ。

bottom of page