top of page
愛染明王.jpg

愛染明王


 
 

 
 







 


 

 









 

  東郊先生との往復書簡から

 「松夕」のこころの深層を探ってみる。

佐々木松夕生誕三百年

松夕が91歳の時の南会津田島の文化人と思われる、東郊先生へ宛てた書簡が残っています。小林政一氏著『奥会津の画師・佐々木松夕』の巻末に、解読された文章が掲載されています松夕独特の癖のあるくずし仮名で書かれているだけに解読には、相当に苦労された事と思います。字母がまま活字になっており読みにくいのですが、大意は分かります。松夕は自分が信仰する「愛染明王」について教えを乞うているのです。

 

東郊先生とは如何なる人物であったかは、小林氏も調査しきれていないようですが、おそらく僧侶かと推測しています。田島には真言宗の寺院が常楽院、安楽院薬師寺、慈恩寺と三刹あります。

松夕家は曹洞宗徳林寺の檀家だったはずですが、なぜ真言密教でしか信仰対象とされない「愛染明王」なのかを知る事が

彼のこころの深層を探る鍵になると思うのです。

 

同時代の絵師、伊藤若冲も晩年は「若冲居士」の落款を使用した仏道修行者でもありました。彼は「山川草木悉皆成仏」の仏教観に共感を持っていたようです。これは存在するすべての物質は、同じであり仏性が宿るという考え方です。この思想が作品にも反映されているのが「動植綵絵」や「果蔬涅槃図」等を見ると解ります。一つの道を究める言うことは、何処かで繫がっているのかも知れません。

 

曹洞禅は坐禅の実践によって得る身と心の安らぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚する事にあります。そして煩悩をセーブする事を求めますが、真言密教の「愛染明王」信仰は煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)という煩悩があるからこそ、人々から悟りを求める心が生まれると考えられています。その教えを象徴したのが「愛染明王」であり、愛欲・煩悩を悟りを求める心に導き、様々な悩みを救ってくれるとされています。これは日蓮宗の現世利益の思想とも通じますし、また軍神としての信仰もあって戦国時代の上杉家家老の直江兼続が信仰者として有名です。

松夕は決して穏やかな心の持ち主ではなく、常に憤怒を内に秘めた人だったようです。かと言って怒りぽい性格というのではなく、穏和ながらも豪放磊落で社交的、他人に対しての思いやりを持ち、人の悪いところはズバズバと戒めるような人と言った方がいいかも知れません。

書簡では東郊先生と書かれていますが、年齢的には松夕よりずっと年下だったと思われます。実際に難所の船鼻峠を越えて、松夕邸を訪問しているのですから健脚・剛健な40〜50代だったのでしょう。

東郊師が上手く「愛染明王」について、松夕が納得ゆくような教えを説く事ができたかどうかは分かりませんが、画道に関しては松夕が一方的に弁舌をふるった様です。90歳を超えても書画の道はマスターできていない、特に関羽の像を描くに際しては、もっと三国志の事を学びたいと思う。

そして描く時には、洗手漱口(せんしゅそうこう)して取り掛かるなどと語っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東郊師の依頼に応じて、来訪のお礼として「鷹に葡萄水墨画をプレゼントしています。この即興の絵にはいたく感動したらしく「筆勢筆舌に尽くしがたし」と返信の書簡に書いています。東郊先生もこんな僅か20軒足らずの集落に90歳を過ぎても知識欲旺盛な翁がいる事に驚いて、帰路についただろうと思います。返信の最後に、一句詠んでいます。

文化九年 弥生とありますから、春でしょうが桜はまだ咲いていなかったかも知れません。松夕の語った言葉を思い出し、花に例えています。飾ってある畫はもちろんの事、きれいに表装されたあの即興畫「鷹に葡萄」でしょう。

関羽馬上図.jpg

掛軸 馬上関羽図。

松夕70歳作。

(画像クリックで拡大)

「身にすぎて 

    ことしの花や

            畫は楽し」

松夕書簡.JPG

松夕からの書簡。91歳とある。(画像クリックで拡大)

東郊師書簡.jpg

東郊師からの返信書簡。(画像クリックで拡大)

コメント

送信ありがとうございました

bottom of page